イスラームと宗教の自由

2018/10/9

 

イスラームと宗教の自由

 

アメリユダヤ人委員会は、「イスラームは宗教ではない」と言う人たちを非難する

 

あるところでの宗教の自由への脅威は、あらゆるところでの宗教の自由への脅威となる。反ムスリムたちがイスラームを宗教ではないかのように扱い、この虚偽の主張によってアメリカのムスリムの権利を否定するとき、それは全てのアメリカ人の信仰についても否定していることになる。全ての信仰と宗教上の慣習が非難の脅威にさらされることになるのだ。

 

アメリカの強みは、基本的原則として、立場や宗教の差異という壁は保ちつつも、宗教的意思表示の自由な主張ができることである。イスラームは、アメリカへの脅威ではない。

 

さらに、アメリカのムスリムから公民権を奪う法律上の策略による試みは、ムスリムたちのアメリカというモザイクへの統合を妨げ、異なる宗教団体間の相互尊重というアメリカに有益な作用を妨害する。

 

イスラームの合法性を認めないことは、イスラームを信仰する人々を脅かすだけでなく、全てのアメリカ人の信仰を脅かすことになる。我々は、「イスラームが宗教であり、モスクが宗教的な集合の場だということは、反論の余地がないことである。」と主張することで、司法省によるこの宗教差別に対する真っ直ぐな拒絶に同意する。

 

https://www.nytimes.com/2018/10/09/opinion/letters/islam-religious-freedom.html?rref=collection%2Ftimestopic%2FIslam&action=click&contentCollection=timestopics®ion=stream&module=stream_unit&version=latest&contentPlacement=3&pgtype=collection

 

 

ニューヨークタイムズのホームページにあった記事です。記事というか、おそらく投稿?コラム?のようなものでしょう。

 

アラブ発信の情報局と、欧米発信の情報局、それぞれの報道を比較したいと思って探していたところ、気になったものです。(そのうちちゃんと比較もせねば〜っ)

 

 

ニュース記事などを読んでいると陥りがちなこと。

ニュースだと、ある国があたかもひとつの人間であるかのような語られ方をします。国というか、ある集団がひとつの人格であるかのように。

 

でもそれってその中のマジョリティの意見にすぎないかもしれない。ニュアンスがちょっと違ったりするかもしれないし、そのちょっとの違いが実はめちゃくちゃ大切だったり。

あるいは、その意見はごくわずかのマイノリティの声かもしれない。自国のことは自分の肌感でなんとなくわかるかもしれないけど、違う国のことになると感覚ではそのへんの見極めはできない。

 

こんなの、改めて気付くことじゃないじゃん。って思われるような気もします。情報はそういうふうに受け止めなくちゃって。当たり前でしょ、って。

 

でも改めて。

なぜなら、いろんな記事を読んで、あまりの矛盾する「事実」に混乱することがとてもよくあるからです。

 

とくにマイノリティの声を重視しすぎてしまうことが多いなぁと思います。マイノリティって外側から見れば、「かわいそうな人たち」になりかねないので、重視されがちな傾向にあるんじゃないかと思います。それが良いか悪いかは場合次第だし、そもそもそれも偏見かもしれませんが。

 

なぜこの記事を訳していてこう思ったのか、それはまたわたしがそこの区別ができなくて混乱したから。

 

記事より長くなってしまいそうなのでこのへんで。