1973年のアラブイスラエル10月戦争 なにが起こったのか?③

1973年のアラブイスラエル10月戦争 なにが起こったのか?③

 

外交路線

 

10月の最後の週、両者は停戦協定を整え、これを受け入れることとなった。

 

推定で、2600人のイスラエル兵士が死亡、8800人が負傷した。これは当時のイスラエル総人口に占める割合を考えると、とてつもなく多い人数である。またエジプトは7700人、シリアは3500人の兵士を亡くしたと報道された。

 

10月22日に国連安全保障理事会は、停戦と、1967年に出されたイスラエルに占領地からの撤退を指示した国連安保理決議242号の再確認を求めた、国連安保理決議338号を可決した。

 

6日後、イスラエル、エジプト両軍のリーダーが、停戦についての交渉を行うため面会した。両国の軍事的代表者の面会は25年ぶりのことだった。しかし、戦場の混乱状態の中で小競り合いが続いていたために、交渉は緊迫したものとなってしまった。

 

アメリカは、イスラエル、シリア、エジプト間の解放合意を確実にするために集中的な外交努力を始め、このような取引に達するため彼らに数百万ドルの提供を申し出た。

 

当時のアメリ国務長官ヘンリー・キッシンジャー氏は、平和条約の仲介をするための取り組みとして各国を飛び回った。これが、新しく国際政治用語に加わった、いわゆる「往復外交」である。

 

11月6日火曜日、キッシンジャーはサーダートとはじめての面会を行うため、カイロに降り立った。4日後、スエズの都市と、包囲されてしまったエジプト第3軍へ、非軍事用品を毎日輸送するという最初の合意が成立した。

 

それから更に4日後、双方の捕虜が交換された。

 

新年を迎えた頃、キッシンジャーはエジプト、イスラエルの解放合意の確立計画を次段階へと進めるため、再び中東へ赴いた。1974年1月11日、サーダートとの面会のため、エジプト南部の街、アスワンに到着した。そしてその次の日、テルアビブに向かった。双方が解放合意を受け入れた。

 

だが一方では、イスラエルはまだシリアの奥深く、首都ダマスカスからそう遠くない地域を占領したままだった。そのためキッシンジャーは、1974年3月、2度目の往復外交を開始した。今回はダマスカス、テルアビブ間である。

 

1ヶ月ほどに及ぶ激しい話し合いののち、3月28日、イスラエルがシリアとの解放合意に賛成したことで、キッシンジャーは中東地域で2度目の成功を確立した。この合意は、6月5日、ジュネーヴで調印され、戦争開始から243日、ようやく公式な終わりを迎えた。

 

エジプトとシリアは自らの領土を回復し、国連の緩衝地帯が彼らとイスラエルの間に設立された。

 

 

https://www.aljazeera.com/indepth/features/2017/10/arab-israeli-war-of-1973-what-happened-171005105247349.html

 

アメリカの介入ぷりがわかります。丸く収めた感じでしょうか。

石油の切り札っぷりがすごい。石油に依存しないものの開発が進むのもわかる気がする…?

 

実際丸く収まったかどうかは45年後の様子を見ればわかりますね。

 

 

先日、19世紀の、エジプトがイギリスに保護国化される流れを改めて勉強しました。(概説的にですが)

古代から、人間の歴史上、信じられないくらいむごい争いはいくらでもあるわけで、むしろ人間の歴史イコール戦いの歴史、のようなもので。

平和を望む詩を書く詩人がいて、平和への道を追求しようとする哲学者がいて、親しい人の死を悲しむごく普通の人間がいて、なのになんで戦争って起こり続けるんでしょうね。

 

たまに、いまの日本社会って、人権意識とか?デリケート過ぎるなあって思うことがあったのですが、全然それでいいじゃーん。ここまでデリケートになれるって、日本どころか、人間の歴史上に残るステキな世の中じゃない?